言語脳科学者 酒井 邦嘉 さん「万年筆は、想像力を高める思考のツールです」

インタビュー

2022/04/28

言語脳科学者 酒井 邦嘉 さん「万年筆は、想像力を高める思考のツールです」

言語脳科学者・東京大学大学院教授 酒井 邦嘉 さん インタビュー

人間だけが持つ言語や創造的な能力を追究する言語脳科学者として、東京大学大学院で教鞭をとる酒井邦嘉教授。脳機能イメージングなどの手法によって、人間の言語を脳から解明すべく研究に取り組む酒井教授は、著書の中で「本を読むことや手書きすることは想像力を高め、脳を創る」と綴っています。万年筆を愛する酒井教授に、手で書くことの重要性、そして手書きが秘める可能性についてお話を聞きました。

「『手書き』はタイピングより
深い思考と理解をもたらす」

― 酒井教授のご著書『脳を創る読書』で、「読書や手書きすることが脳を創る」ということを書かれていますが、まずはそのことについてお話をお聞かせください。

手書きは、深い思考や理解を助けてくれますね。手書きはタイピングと比べてスピードは圧倒的に遅いですが、その間に考えながら書くことができるからです。

海外の実験では、タイピングと比べて手書きの方が深い理解に達することが明らかになっています。講義のノートをとる際にタイピングと手書きのグループで比較しているのですが、表面的な知識にはあまり差がなかったものの、理解度に違いが表れました。タイピングのメモは受け身になりがちで、一字一句入力できるのに理解しにくい。一方、手書きでは全文までは書けないため、キーワードを書き出して矢印でつないだり、考えたりしながら要点をまとめていくため、咀嚼しやすくなるのでしょう。


― ご著書の中でも、「情報が限られるとそれを補おうとしてさらに考える」とありましたね。

確かに情報が少ないと、その分を想像力で補う必要が生じます。また、文章を書こうとするとき、ゼロの状態から書き始めるまでには、大きなハードルがあるものです。準備に手間暇かけることで考えるための助走が可能となり、いちばん大事な「構想」が生まれやすくなります。

昔の人は毛筆で字を書く前に、まず墨を摺(す)ることから始めたわけで、そのひとときは書く意欲を高めたことでしょう。現代では、万年筆がそれと同じ役割を担っていると思います。お気に入りの万年筆にインキを吸入してから書き始める。その時間は、なかなか味わい深いものではありませんか?

私は音楽が好きで、ヴァイオリンとヴィオラ、そしてフルートを習っています。弦楽器は弓に松脂を塗る準備が必要ですし、管楽器はロングトーンやソノリテで息を整えてから始めます。これに慣れてしまえば、準備は苦になりません。それに、美しい音を奏でるには良い楽器が必要なのと同じで、美しい字を書こうと思ったら良い万年筆が欲しくなるでしょう。ペンの選択は、書くことへのモチベーションを左右すると思います。

道具を大切にする思いは、感性の豊かさであったり、その人の字の味わいであったりと、さまざまな面に表れてきます。学校で筆記具を画一化したり、コストや効率だけを求めたりするようでは、教育にとってマイナスの効果となるでしょう。最近そういうことを考えるようになって、私は小学生の頃から万年筆を使うことを勧めています。



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「手書きは、深い思考や理解を助けてくれます」


― 小学生の教育について、酒井教授から何か働きかけていらっしゃることはあるのでしょうか。

先日、十歳くらいの子どもたちに向けて授業をする機会があり、最初に万年筆の使い方から始めてみました。使い慣れないペンに難航するだろうと予想したのですが、みんなすぐに使い方を覚えて、きれいな字が書けるようになったのです。この成果を私はとても喜ばしく感じました。

参加した生徒のひとりが、「学校でも万年筆を使いたい」と担任の先生に頼んでみたところ、「ひとりだけ別の種類の筆記具を使うのはダメ」という答えだったと聞きました。ただ、宿題で使うことだけは認めてもらえたそうです。人気のキャラクターが付いた筆記具も、その学校では禁止だそうで、なんとその理由は「気が散るから」とのこと。筆記具の柄が気になって集中力がそがれるなどということがあるでしょうか。なんとも心ない指導の仕方に、唖然としてしまいました。

「消せないと勉強にならないから、鉛筆以外はダメ」という意見もあると思いますが、むしろ消せないからこそ、字を丁寧に書くようになるのです。書き損じを減らすには、予め心で準備してから書く必要がありますから、そこに教育的な効果があるのです。ヨーロッパと同じように、小学生にも広く万年筆を手にしてほしいものですね。

 
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「どんなに機械化が進んでも
手書きの習慣を大切に」

― 現在、筆記ツールもアナログやデジタルと多様化していますが、その違いについて酒井教授のお考えをお聞かせいただけますでしょうか。

私は、ノートをとるときやアイデアをメモ書きするときなど、普段から万年筆を使っていますが、原稿に仕上げる段階ではパソコンに向かいます。立った状態でメモパッドを使うときや、実験室で記録するときは、どうしてもペンを取り落とすことがあるため、ボールペンにしています。

筆記具は、電子ペンも含めてひと通り使ってきました。スマートフォンが世に出る前は、PDAといわれる手のひらサイズのタブレットとスタイラスペンを使って、手書きのメモをとっていたことがあります。そこで気づいたのですが、時間が経ってからメモを見返すと、自分の文字なのに読めないことがなぜか多いのです。万年筆やボールペンを使えば、慌てて書いた文字でも自分で読めないということはまずありません。そこでPDAはあきらめて、小さな紙のメモパッドを常に携帯するようになりました。
※PDA:personal digital assistant の略。スケジュールやメモ、住所録などの情報を記録するための小型の携帯情報端末。



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いつも携帯しているというメモパッドは胸ポケットに入るコンパクトサイズ。実は電子ペンより、万年筆やボールペンの方が文字の視認性が高い。



PDAのような電子機器に書いた文字は、どうして読みにくいのでしょうか? 理由のひとつは、筆圧の再現に劣る電子ペンの場合、線の太さが画一的で情報が少ないストロークになるということです。これでは線をどこからどの方向へ書いたのかや、筆順などが分かりづらく、文字種の視認性が低下します。一方、万年筆で書いた場合は、太さの変化やカスレ具合で文字の判別が容易になります。これは、毛筆の字体の特徴と同じですね。

大学のオンライン授業では、電子ペンでPDFファイルや画面に書き込む必要があります。やはり画一的な線になりがちで、学生も読みにくいだろうと思います。電子機器に書いた文字が読みにくいということに気づいてからは、万年筆の必要性をより強く感じるようになりました。


― 手書き文字の線には、それほど多くの情報が詰まっているのですね。

文字にも、音声と同じような「抑揚」があるのです。筆跡に個性が出るのはそのためです。ボールペンやシャープペンシルも画一的な線になりがちですが、私が愛用しているヴィンテージのシャープペンシルは、芯が1.18 mmと太いため、線に太さの変化がはっきり出ます。そして何より、芯が折れることがありませんから、思考が止まらないという点で重宝します。書籍への書き込みや資料の添削など、消せないと困るものには、そのシャープペンシルを使っています。


― 最近では、デジタル機器が普及してきて、若い世代は手書きから遠ざかっているように思いますが、酒井教授の学生さんはいかがでしょう?

講義中にキーボードを打ってメモをとる学生が増えており、手書きする機会が減っています。さらに驚きなのが、机上にスマートフォンしか置かずに、全くノートをとることなく講義を聞いている学生が増えてきたことです。小学生のときからタブレットだけになってしまったら、さらにその傾向が加速して、メモをとれない学生が出てくることでしょう。

思い返してみると、学校の英語の授業で筆記体を教えなくなって久しいです。ネイティブ・スピーカーが筆記体をもうあまり使っていないという理由もあったのでしょうが、欧米でキーボードが使われるようになって手書きの習慣が減ったことがそもそもの原因でした。さらに遡れば、タイプライターが普及してから、読みやすい字が手軽に印字できるようになったわけです。利便性を追求した機械化の代償として、字をきれいに書くという能力が失われつつあるのです。


― そういう理由が背景にあったのですね。利便性の獲得とともに手書きが消えつつあると……。

私の学生時代は、論文の審査がウェブ上ではなく紙で行われていて、欄外に英語でコメントが書き込まれることも多かったです。それが、海外の有名な学者でもほとんど読めない字で書かれていて、解読に苦労した覚えがあります。ちょっとしたカルチャーショックでしたが、それもタイプライターが生んだ弊害なのでしょう。

日本の学校で今起こっていることもそれと似ています。キーボード操作や、スマホのフリック入力、タブレットの画面タッチなどが当たり前となれば、字を書くことを億劫に思うようになるでしょう。私は時流に抗って、大学のレポートも手書きでの提出を求めています。ネット上の情報を安易にコピペできてしまう時代だからこそ、手書きで咀嚼してから自分の考えをしっかりとまとめてほしいのです。

手書きは思考を含めてすべての基本です。どんなに機械化が進んでも、手書きの文化までを失うわけにはいきません。筆跡にはその人の個性が表れますから、手書きの習慣をこれからも大切にしていきたいものです。

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「インキの筆跡に人生が表れる。
書くことはそれほど素晴らしい」

― ご自身も普段から万年筆をお使いだということですが、どんな場面で使うことが多いのでしょうか?

時節柄、会議などをオンラインで行うことが多くなりましたが、その際すべて万年筆を使ってメモをとるようにしています。画面越しの会話でも五感や感性を維持できますし、自分の考えを思いついたときにメモしておくことで、インタビューやブレインストーミングにも役立ちます。

万年筆はたくさん持っていて、それぞれの出番が偏りがちになったので、ローテーションで使うようにしています。ペン先の太さで使い分けることもありますが、そこはあまりこだわりません。


― どのようなインキ色がお好みですか?

インキは万年筆の胴軸のデザインから連想できるような色を入れていて、深い青から緑にかけての色が好みです。最近は温かみのあるブラウン系や深みのある赤系も加えています。学生時代はブルーブラックしか使わないといった、どこか保守的なところがありましたけれど、今は限定品のインキを含めて楽しんでいます。パイロットさんだと「色彩雫(いろしずく)」のシリーズがとても気に入って使っています。

私は科学者なので、実験ノートやアイデアを書き留めるノートには、記録性を重視して、必ず糸綴じのものを使っています。改ざん防止の観点から、鉛筆など消せる筆記具は使えないのです。師匠や先輩から、その点は徹底して叩き込まれました。油性ボールペンの場合、書き始めにインキが出なかったりして、使い勝手がよくありません。その点はゲルインキの開発によって解消されましたが、万年筆には他に代えがたい魅力があります。



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数ある万年筆コレクションの一部。1930年代のセルロイド製のものなどヴィンテージ品も多い。



― 万年筆のどんな側面がそこまで酒井教授を惹きつけるのでしょうか?

学生時代から、作家の自筆原稿や作曲家の自筆譜を複製出版したものをコレクションしていて、オリジナルの資料を目にする機会が多かったのです。特にベートーヴェンが好きで、モーツァルトやバッハの自筆譜もいくつか持っています。当時は羽ペンでしたが、使用したインキで作曲年代が特定できるほど、実は情報が詰まっています。文字に限らず楽譜でも、その筆致には作曲当時の感情や人となりが表れていて、とても興味深いのです。そうした羽ペンの世界は、そのまま万年筆に受け継がれています。

物理学者の朝永振一郎先生の遺品の中に、欄外に万年筆でびっしりと書き込んだ蔵書があるのを見たことがあります。そのあたりから、学者や作曲家という仕事に、「万年筆」という知的な道具が自然と結びついていきました。私は道具から入るタイプなのです(笑)。


― 万年筆を使うようになったきっかけは何だったのでしょう?

高校の入学祝いをいただいたときに、自分で万年筆を買ったのがきっかけでした。高校生の頃は、朝永先生の随筆や、アインシュタインの伝記などを読みふけっていた覚えがあります。伝記に載っていた話ですが、あるときアインシュタインが、「研究室はどちらにあるのですか? 」と聞かれました。彼は微笑して、胸のポケットから万年筆を取り出して、「ここです」と答えたそうです。しびれる話でしょう(笑)。

万年筆は、想像力を高める思考のツールであり、「研究の場」と言ってもいいほどです。そしてインキの筆跡には人生が表れます。書くことはそれほど素晴らしい、人間らしい働きですね。



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酒井 邦嘉 さん 言語脳科学者 / 東京大学大学院教授
1964年東京生まれ。東京大学理学部物理学科卒業。同大大学院理学系研究科博士課程修了(理学博士)後、同大医学部第一生理学教室助手、ハーバード大学医学部リサーチフェロー、マサチューセッツ工科大学客員研究員を経て、1997年より東京大学大学院総合文化研究科助教授。2012年より同教授。2002年第56回毎日出版文化賞、2005年第19回塚原仲晃記念賞受賞。専門は、言語脳科学および脳機能イメージング。趣味は、写真撮影や器楽演奏など。著書に『言語の脳科学』『科学者という仕事』(以上、中央公論新書)『チョムスキーと言語脳科学』(集英社インターナショナル)他多数。

東京大学 大学院総合文化研究科 相関基礎科学系 酒井研究室 公式サイトはこちら 〉〉〉〉Sakai Lab, The University of Tokyo

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『脳を創る読書』酒井 邦嘉 著

電子書籍化が進む今こそ、問う。『言語脳科学』の第一人者が真に「考える」ためのツールを学究的な視点から検証する。脳の特性と不思議を説き、読書が脳に与える影響に言及しつつ、実際に「紙の本」と「電子書籍」を使って読書した場合の脳の反応について解説する。「紙の本」の風合い・質感・活字の存在感をこよなく愛する人も、「電子書籍」の簡便さに魅了されている人も必読の、脳と読書の意外な関係。

実業之日本社 1,320円(本体価格 1,200円)

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『脳とAI − 言語と思考へのアプローチ』酒井 邦嘉 編著

近年、脳科学と人工知能(AI)は多くの関心を集めているが、誤解も少なくない。「AIは人間の脳を超えられるか(シンギュラリティは来るのか)」、「脳とAIはどこが似ていて何が違うのか」、「人間の言語と思考の本質とは何か」。そうした根源的な問いに答えるには、学問的な背景と現在地、そして未来像を的確におさえる必要がある。人工知能(AI)の現状と未来を、脳科学・工学・言語学や将棋のエキスパートたちが語り、対話を通して読者を知的冒険の最先端に誘う。酒井邦嘉 編著 / 合原一幸 / 辻子美保子 / 鶴岡慶雅 / 羽生善治 / 福井直樹 著

中公選書 1,650円(税抜価格 1,500円)


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