2025/06/25
万年筆市場に新たなニーズを掘り起こした、子ども向け万年筆「カクノ」の開発秘話。
2013年の発売と同時に注目を集め、一躍ヒット商品となって以来愛され続けている万年筆「カクノ」。子ども向け商品として開発されながら、大人のファースト万年筆としても人気を集め、幅広い世代に受け入れられるロングセラー商品となった「カクノ」の開発秘話をお届けします。
日本の万年筆史上初の
「子ども向け万年筆」を。
丸みのあるやさしい手ざわり、鉛筆のような六角形のボディ、自然と正しい持ち方ができる三角形のグリップ、そして、ペン先に刻まれた笑顔のマーク......。これらは、子どもが持ちやすく書きやすいように考え抜かれた万年筆「カクノ」の特長です。
今となっては、すっかりおなじみとなった「カクノ」ですが、それまで万年筆といえば「大人が使う高級筆記具」というイメージが浸透していました。「子ども向け万年筆」として「カクノ」が誕生したのはそんな時代です。
また、アナログからデジタルへの加速が止まらない時流にあって、大人の嗜好品という印象が強い万年筆の需要も減少傾向にありました。そのような背景があるとはいえ、万年筆はパイロットにとって1918年の創業時から変わることなく自社生産にこだわってつくり続けてきた大切なものです。どんなにデジタル化が進もうとも、万年筆や手書き文化を途絶えさせるわけにはいきません。当時の万年筆は安いものでも3,000円程度という中、品質に妥協することなく1,000円という低価格を実現した「カクノ」の開発の背景には、そうした思いも込められていたのです。「万年筆の新たなニーズを開拓すること」「手に届く低価格製品を開発すること」は、パイロットの長年の課題でした。
2012年秋に3,000円で発売したエントリーモデルの万年筆「コクーン」が若い世代から予想以上の支持を得たことを受けて、万年筆の潜在的なユーザーが若年層にもいるという手応えを感じ、「さらに低価格の1,000円」かつ「子ども向けの万年筆」という新しいコンセプトによる商品開発をスタートさせることとなったのです。
未来の万年筆ユーザーを増やすために
子ども向け市場を切り拓く。
「コクーン」の成功以外にも新しいプロジェクトを後押ししたことがあります。それは、8,000人を対象とした「万年筆に関する実態・意識調査」の結果でした。その調査によると、50代男女の9割以上が万年筆を使った経験があるのに対し、20代の4割は使った経験がありませんでした。一方「万年筆が欲しい」と回答した人がもっとも多かったのもまた20代だったのです。調査で見えてきたのは、「関心はあるけど使ったことがない。でも欲しい」という潜在需要が若年層にあることと、持っていない理由が「高そう」「選び方がわからない」ということでした。
とはいうものの、「本当に子どもが万年筆を使うのか?」という議論は社内で何度も重ねられました。その中で着目したのが、欧州では学校教育の現場で子どもたちが万年筆を使うという慣習でした。子ども時代から万年筆に親しんでいれば、大人になっても万年筆を使う可能性は自ずと高まり、将来の万年筆ユーザーを増やすことにつながります。
日本には子どもの頃から万年筆を使う慣習はないものの、「今の日本に子ども向けの市場がないならば、未来のために切り拓くしかない」「親や祖父母が、子どもや孫へファースト万年筆としてプレゼントしてほしい」という思いが、開発者たちの士気を上げました。
こうして、「子どもたちが気軽に使えるファースト万年筆」というコンセプトが固まり、プロジェクトが本格的に始動することとなったのです。
「万年筆に関する実態・意識調査」の結果(写真右)から新たな市場のニーズを掘り起こし、子ども向け万年筆というコンセプトに基づいて、試行錯誤が繰り返された。
「えがおのマーク」のアイコンが
開発チームの心をつかむ。
前例のない「子ども向けファースト万年筆」の開発にあたり、コンセプトに加えてプロモーションの重要性を感じていた商品企画の担当は、販促企画と生産担当を当初から開発チームに加えてプロジェクトをスタートさせました。
まずは製品の要となるデザインを決めるため、社内デザイナーによるコンペが行われました。「子ども向け」がコンセプトとはいえ、「万年筆は大人が使うもの」というイメージが浸透する空気の中でデザイナーたちが提案してきたデザイン画は、大人のユーザーを意識したようなシックなものばかり。
そんな中、キラリと光を放つ一枚がありました。そこに描かれていたのは、万年筆のペン先でニコリと微笑む「えがおのマーク」。さらに、鉛筆に近い感覚で使えるように鉛筆のような六角形のボディというアイデアも盛り込まれています。開発メンバー全員の心がつかまれた瞬間でした。
子ども向けの万年筆であることが一目瞭然で、プロモーションのイメージまでも目に浮かぶようでした。こうして「子ども向け万年筆」という新しい市場を切り拓くデザインコンセプトが満場一致で決定したのです。
デザインコンペで採用された「カクノ」のデザイン原案。
ここから商品化へ向けて、細部のつくり込みが急ピッチで進みます。
万年筆を初めて使う人がつまずきがちなのが、ペン先の方向を間違えて持ってしまってインキがスムーズに出ず、きちんと書けないということ。子どもであればなおさらです。そんなちょっとしたストレスが原因で万年筆を使うことがおっくうにならないような工夫を新たに取り入れました。ボディ形状はデザイナーが提案した六角形を採用しましたが、グリップ部分は三角形にして自然と正しい持ち方ができるように。また正しく持つとペン先のえがおのマークが正面に見えるようになっていて、それも正しい持ち方の目印となっています。
さらにキャップ部分には、転がり落ちてペン先を傷めたりすることがないよう転がり防止の突起、子どもの手でも開けやすいように配慮したキャップのくぼみ、また誤飲時の窒息防止穴などの工夫がいっぱい。シンプルな構造の中に、考えられる限りの機能を盛り込みました。
徹底して子どもの目線で開発することによって、さまざまな工夫が詰め込まれ、結果として誰にとっても使いやすい万年筆へとブラッシュアップされていきました。
子どもが使いやすい万年筆をめざして、シンプルな構造の中にさまざまな工夫を盛り込んだ。
万年筆の心臓部、ペン先のクオリティを保ちながら
1,000円の大きな壁を越える。
もう一つ特筆すべきことは、1,000円という低価格を実現するために、製造コストを徹底的に抑える必要があったことです。当時の最安価格だった3,000円の「コクーン」のさらに3分の1、1,000円という大きな壁が立ちはだかっていたのです。
一方で、自社生産にこだわって万年筆をつくってきたパイロットとしては、何としても譲れないことがありました。それは、万年筆の書き味を左右するペン先です。「万年筆の心臓部であるペン先のクオリティだけはどうしても守り抜かなければならない」という信念があったのです。「3,000円の『コクーン』と同じペン先を採用すること」を条件に、1,000円の壁をクリアするという難問に挑むこととなりました。
そこでまずは部品数をさらに絞り込み、万年筆としての機能を保つことができる極限の部品構成で設計。一般的な万年筆では約20点もある部品を、わずか6点にまで絞り込むことに成功しました。そして、ステンレス製のペン先以外のすべての部品を樹脂製とすることで、大幅なコスト削減を実現したのです。
しかし、ここまで突き詰めてもまだ、目標とするコストには届きませんでした。そこで次に取り組んだのが組み立て工程でした。高価格な万年筆の場合、組み立て工程のほとんどを職人による手作業で行います。これまでと同じ手作業ではコストがかさんでしまうため、機械が組み立てを行う新設備の導入に踏みきったのです。それでもすべてを自動化することはできず、手作業による組み立てを省力化できる専用の補助具を新たにつくりました。
さらに目をつけたのが、ペン先の刻印です。従来であれば1点ずつプレス刻印するところ、工程の削減につながるレーザー刻印を導入。このレーザー刻印導入には思わぬ収穫もありました。レーザー刻印の版をデータで管理するため、プレス刻印に使用する金型は不要となります。結果としてペン先デザインの自由度を広げることとなり、後にさまざまなデザイン展開が可能となったのです。
品質に一切の妥協を許さないこだわりを貫きながら、数々の試行錯誤を重ねた末、ついに1,000円という超低価格を実現することができました。
ペン先をモチーフにキャラクター化した「カクノくん」は、デザイナーによる手描き。
「子ども向け」という揺るぎないコンセプトが
万年筆の敷居を下げる。
製品開発もゴールが見え始めた頃、「きっと『書くの』が楽しくなる。」という思いと、「六『角の』万年筆」という意味を込めて、新しい万年筆を「カクノ」と命名。
製品化と併走しながら、ロゴデザイン、パンフレット、店頭ディスプレイなど、発売へ向けてさまざまなプロモーションツールづくりが進められます。万年筆に初めて触れる子どもたち、その親や祖父母世代が「これ、欲しい!」「子どもに使わせてみたい」と、思わず手にとりたくなるようにと工夫を凝らし、次々とツールをカタチにしていきました。
「カクノ」の発売以前は、万年筆といえばショーケースに並べられていて、店員に声をかけなければ手に取ることができないというイメージが定着していました。「敷居が高い」と思われていた万年筆のイメージを払拭するべく、「カクノ」は気軽に手に取れるようショーケースには入れず、専用ディスプレイに並べることになりました。
そして商品のパッケージは、ペン先にあるえがおのマークが見えるようにキャップを外してセットして、子どもたちの目を引くようにしました。台紙もパステルトーンで統一し、親しみやすくしました。さらに説明書には、万年筆の使い方やお手入れ方法がわかりやすいように、ペン先をモチーフにキャラクター化した「カクノくん」のイラストを採用。
そして、店頭で気軽に試し書きができる仕掛けにもこだわりました。当時の万年筆売り場としては珍しく、試し書き用の紙とサンプルを子どもの目線の高さにセット。こうして細部まで、「子ども向け万年筆」というコンセプトが貫かれ、いよいよデビューの日を迎えることとなったのです。
上左:子どもの心をくすぐるポップでカラフルなキャップ。上右:ペン先のえがおのマークを見せながら一目で万年筆だとわかるパッケージ。下:子どもにもわかりやすいよう、使い方やお手入れ方法を紹介するイラスト入りの説明書をパッケージに同梱。
1年で65万本を売り上げる、ケタ外れのヒット商品に!
後のインキブームにも一役買った「カクノ」。
2013年10月、華々しいデビューを飾った「カクノ」。店頭には、透明のパッケージ越しに微笑みかけるえがおのマークに足を止める人々、そして家族と一緒に試し書きをする子どもたちの笑顔がありました。こうして当初の販売目標本数をはるかに超える反響を呼び、想定外の増産に生産ラインはうれしい悲鳴をあげることとなりました。
また、多くのメディアに取り上げられたことでさらに話題となり、1年で65万本を販売する大ヒット商品に急成長しました。「カクノ」は万年筆史の記録を大幅に更新することになったのです。
その後も「カクノ」が市場に与えた影響は大きいものでした。子どもだけでなく大人のファースト万年筆としてはもちろん、「複数本所有して、さまざまなインキの色を楽しむ」という使い方が多く見られたのも印象的でした。
また、万年筆用カラーインキの先駆け「iroshizuku (色彩雫)」の影響でじわじわと広がりを見せていたインキ人気の高まりも、「カクノ」の登場によってさらに加速することとなりました。後に「インク沼」という言葉を生み出すほど空前のインキブームを巻き起こす火付け役としても、「カクノ」は一役買ったのです。
さらには、インキやコンバーター(インキ吸入器)など関連アイテムの販売数がぐっと伸びたり、それまで万年筆を置いていなかったショッピングモールや量販店にも「カクノ」が並んだりと、文具売場の景色までも大きく変えることになりました。
こうした万年筆市場の変化を受けて、マーケティング専門紙「日経MJ」の2014年ヒット商品番付ランクイン、「グッドデザイン賞」や「キッズデザイン賞」受賞など、子ども向け万年筆として第三者から高く評価されたことも、万年筆としては稀有な出来事でした。
「クオリティが高く本格的、かつ1,000円という超低価格の子ども向け万年筆」という実現困難とされていたプロジェクトは成功し、今こうしてたくさんの人々に愛用されています。「万年筆で文字を書くことを楽しむ」文化を、将来にわたって広げていきたいという思いから生まれた万年筆「カクノ」。日本の子どもたちの「書く風景」が変わる日は、そう遠くない未来にやってくるかもしれません。
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